ポワトゥー

フランス西海岸のポワトゥー湾沿い、ラ・ロシェルの北、ニオールの西にポワトゥー湿原(仏:Marais Poitevin)と呼ばれる湿原がある。

サントンジュ戦争におけるタイユブールの戦いでフランスが決定的に勝利し、イングランド王ヘンリー3世がフランスに大陸部のプラントゲネット領が奪われたことを認めたため。

16世紀後半から17世紀初頭にかけて、ポワトゥーは貴族やブルジョワの間でユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)の活動の温床となった。 プロテスタントは、フランスの宗教戦争(1562-1598)の間、差別され、残酷な攻撃を受けた。 1604年から北米東部に入植したフランス人入植者(後にアカディアンと呼ばれる)の一部は、ポワトゥー南部出身であった。 彼らは現在のノヴァ・スコシア(Nova Scotia)、後にニューブランズウィック(New Brunswick)に入植したが、いずれも18世紀後半に(七年戦争で1763年に勝利した後)イングランドに占領された。

1685年にナントの勅令が取り消されると、フランスのローマカトリック教会は強い反宗教改革の活動を展開した。 1793年には、バ・ポワトゥー(ヴァンデ県)で3年にわたるフランス革命政府に対する公然の反乱が起きたが、これもその一因となった。 1815年のナポレオンの百日天下でも、ヴァンデは王ルイ18世の復古王政に忠実であった。 5454>

歴史家のアンドレ・ランペルトは、

「17世紀のポワトゥーの根強いユグノーと18世紀末のヴァンデとなったところの激しくカトリックに反逆する王党派は、互いに全く異なる、まさに正反対のイデオロギーを持っていた」と指摘している。 この二つの現象に共通するのは、その構成や性格がどうであれ、地方のアイデンティティを主張し続け、パリの中央政府に反対していたことである。 (中略)ルイ13世とルイ14世が激しい抵抗に遭った地域で、ブルボン家は、まさにそれが打倒されたとき、そしてブルボン家の忠誠心が、ロベスピエールの新しい中央政府に反対する地元の忠誠心を意味するようになったとき、忠実で戦闘的な支持者を獲得した」

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